日本語とタミル語

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1.What's new

もくじ

1.1 日本語に似ているタミル語

1. 似ているところ
  • 疑問文の作り方が同じ
    • (日本語は語尾に「か?」をつけるがタミル語は語尾に「アー?」をつける)
  • 文法・文章構成の語順が似ている
  • 擬音語・擬態語の表現が似ている
  • 基本母音(a, i, u, e, o)が同じ(長母音と短母音の違いはあり)
  • その他、似ている言葉がたくさんある
    • (辛いと伝えたい場合、カーラと言えば伝わります。)

1.2 ヤンゴンにタミル人がたくさんいた

1.年1回ヤンゴンでのタミル語の試験の表彰式
  • 年1回ヤンゴンでタミル語の試験が行われ、その表彰式がこの集まりだった。
  • 雲南迎光會館(仰光はヤンゴンの中国名)と漢字で書かれた会館の大ホールにタミル人ばかり(たぶん2,000人以上)集まっていた。

  • 南インドからやってきたタミル舞踊のダンサー

1.3 学会で無視された大野普先生の業績

1. 東北大学「山下博司」からの執拗な攻撃

2.タミル語とは何か

2.1 タミル語の誕生

1.タミル語とは
  • タミル語は、インド亜大陸南部を中心に用いられるドラヴィダ語族に属する言語の一つです。
  • 話者人口はインド国内だけで6千万人を超え、国外ではスリランカ、南アフリカ、シンガポール、マレーシアなどに千万人以上います。
  • ドラヴィダ語族(Dravidian)に属する言語は、今日では少なくとも26が数え上げられています。
  • 18世紀末から、主に西欧の宣教師たちによってサンスクリット語などとは系統を異にする言語が見つけられていました。
  • 1856年、ドラヴィダ言語学の創始者コールドウエル(R.Caldwell, 1814~91, 英)は、それらの言語のなかで、 タミル語が歴史においても内容においても代表的な存在であること、 古サンスクリット文献でタミルを話す人々あるいは地域を、draviDaまたはdraaviDaと呼んでいることから Dravidianという語を造語し、それら諸言語を呼ぶ語族名としました。
2.タミル語の歴史
  • タミル語の最古の記録は、紀元前3世紀ごろの碑文です。
  • この碑文は、言語はタミル語、文字はブラーフミー文字なので、タミル・ブラーフミー碑文と言います。
  • 以後タミル語は、今日まで2千年以上にわたって用いられてきていますが、文法や語形の変化によって、大雑把に言って以下の3つに分けることができます。
    • ①後6世紀頃までの古タミル語
    • ②7~18世紀頃の中期タミル語
    • ③それ以降の近現代タミル語
3.タミル語の文語と口語
  • 音の記録が残っていない近代以前のタミル語については分かりませんが、現代タミル語では、 書き言葉(文章語)と話し言葉(口語)とは、これが同じタミル語かと思えるほど違います。
4.タミル語の方言
  • わが国で方言というと「ある地方の言葉という意味で使いますが、かつては「お武家言葉」とか「商人言葉」というようなものがありました。
  • 前者を地域方言(regional dialect)、後者を社会方言(social dialect) と言いますが、タミル語にはこれら両方言がそれぞれたくさんあります。
  • インドで社会方言といえば、まずはカーストによる方言です。
  • 例えば、バラモンが使うバラモン方言やキリスト教徒のクリスチャン方言のようなものです。
  • 厄介なのは、バラモン方言を除くと、他の社会方言は地域によって異なるということです。
  • ですから、チェンナイ(マドラス)のクリスチャン方言とマドゥライのクリスチャン方言は異なります。
5.タミル語の標準語
  • では、標準語というものはないのでしょうか。
  • 人によってはタミルナードゥ州中部の、ティルチからタンジャヴールあたりのタミル語が標準的なタミル語だと言います。
  • しかし、それはどうやら一番癖がないということのようです。
  • ですからテレビのニュースで、その標準タミル語が用いられているかと言うと、そんなことはなく、テレビ局のあるチェンナイ(マドラス)方言が使われています。
  • タミル人にとっては、「標準語」など、どうでもいいようです。
6.タミル語の文法
  • では、われわれはどのようなタミル語を学んだらいいのでしょうか。
  • 普通、文法書は長い間の経験則から、近現代の散文のタミル語が読めるように配慮されています。
  • それは、文字に譬えれば、楷書体を学ぶようなものです。
  • 楷書体を学んでおけば、各人の手書きの文字(多様な方言やその口語体)も慣れれば読めるようになります。
  • われわれが学ぼうとするタミル語も同様です。
  • 近現代のタミル語散文を読めるようにして、それから口語に進むなり、古典語に進むようにします。

2.2 ドラヴィダ語族

1.ドラヴィダ語族とは
  • インド南部~スリランカ北部に住む人々、またはその言語の総称である。
  • 現在インド総人口の約25%を占める。
  • ドラヴィダ語族は、古代インダス文明を築いた先住民族だが、アーリヤ人に追われて南下し、タミル、テルグ、カンナダなどの諸民族に分かれた。
  • 現在はヒンドゥー教の影響を受け、カースト社会を形成しているす。
  • ドラヴィダ語族の先祖は、古代シュメール人と言う説もある。(インダス川から縄文時代の日本列島に
  • ドラヴィダ語族が住むインダスと古代シュメール人が住むメソポタミア(現在のイラク)の間にあるイラン高原にはエラム人が住んでいて東西交易を担っていたので、 インダスとメソポタミアは盛んに交易をしていたようだ。
  • インダスとシュメールがエラム人を通さずに直接交易する場合は、海上航路を利用したようだ。
  • つまり、シュメールにとってインダスが「エデンの園」だったので、シュメール人がインダスに移住して、ドラヴィダ語族になった可能性が高い。
  • ドラヴィダ人の特徴は二重の丸い大きな目、彫の深い顔、肌が黒く、身長は低いが手足が長く、体毛は濃く、髪の毛はカールしたり縮れている。
  • この特徴は肌の黒さ以外は縄文人、沖縄人、アイヌ人に似ている。
  • ドラヴィダ語族などのインド人の肌の黒さは、暑さのせいなので、涼しい場所に住んでいる縄文人、沖縄人、アイヌ人は、肌が白くなっても不思議はない。
  • ドラヴィダ語族は戦争も少なく、平和な商人中心の文化だったようだが、その点も縄文人などと共通性がある。
  • ただし、ドラヴィダ語族と現在の日本人のDNAは、似てはいるけど一致していないので、ドラヴィダ語族は日本に主に文化を持ち込んだようだ。
  • ドラヴィダ語族が日本に持ち込んだ文化には、鉄や青銅や焼畑農業、稲作などがあるらしい。
2.ドラヴィダ語族の言語分類
  • 膠着 (こうちゃく) 語的特徴を示す
  • ブラーフイー語……パキスタンのバルーチスターン地方
  • 北部支派
    • クールクー語 (オラーオーン語) ……チョータ・ナーグプル地方
    • マルト語
    • クイ語……オリッサ州
  • 中部支派
    • ゴーンディー語……マディヤ・プラデーシュ州
  • 南部支派
    • タミール語……インド南部~スリランカ。1世紀以来文字記録があり、サンスクリット文学に並びインドで最も古く豊富な文学を発達。インド系タミル文字で書写される。文語と口語の差異が大きい。
    • テルグ語……主に南インドのアーンドラ・プラデーシュ州。サンスクリット文学の影響で文学が発達。南方系ブラーフミー文字から派生したテルグ文字で書かれる。
    • マルヤーラム語……ケーララ州とその近隣、ラクシャドウィープ諸島。9世紀ころタミル語から分かれ、10世紀に碑銘を残す。サンスクリット文学、タミル文学の影響で文学が発達。古くバッテルットゥ文字、その後グランタ文字を採用。イスラム教徒はアラビア文字を使う。
    • カンナダ語 (カナラ語) ……カルナータカ州とその周辺
3.ドラヴィダ語族の民族分類
  • ブラーフイー族……パキスタンのバルーチスターン地方
  • 北部支派
    • クールクー族……チョータ・ナーグプル地方
    • マルト族
    • クイ族……オリッサ州
  • 中部支派
    • ゴーンディー族……マディヤ・プラデーシュ州
  • 南部支派
    • タミール人……インド南部~スリランカに居住。宗教は主としてヒンドゥー教。
    • テルグ人……南インドのアーンドラ・プラデーシュ州を中心に分布。大規模な農耕カースト(大きいのは200万~300万)が見られる。
    • マルヤーラム人……ケーララ州周辺。
    • カンナダ (カナラ語) 人……カルナータカ州とその周辺
4.ドラヴィダ語族の歴史
  • 3500 BC
    • イラン東部の高原からインド西北の平野部へ、ドラヴィダ人の先祖(地中海人種)が侵入 → インダス文明を築く。
  • 2300~1800 BC  インダス文明
    • 水、牡牛、菩提樹の神聖視、リンガの崇拝、獣神としてのシヴァ神(浮彫がある)信仰、ソーマ(神聖酒)信仰などは、すべてドラヴィダ人の築いたインダス文明が起源。
  • 1500 BC
    • インダス文明の崩壊、アーリア人の侵入 → ドラヴィダ人の南下開始。
    • ドラヴィダ人は次の3グループに分かれて移動。
      • 北部支派 → インド西部、オリッサ、ベンガル地方へ
      • 中部支派 → インド中部、マディヤ・プラテーシュ地方へ
      • 南部支派 → インド南部、デカン高原へ
    • この他にバルーチスターンに逃亡したブラーフイー族がいる。
  • 1300 BC
    • デカン高原に入った南部支派は、二つに分離。
      • 第1グループ……テルグ族
      • 第2グループ…… → タミール、カンナダ族
  • 800~500 BC
    • 第2グループはさらに2種族に分かれ、それぞれの土地へ到着。
      • カンナダ族 → カルナータカ
      • タミール族 → インド半島最南端
  • 前4世紀
    • タミール族は海上貿易で強盛となり、すでに次の南インド3大国を建てていた。
      • チョーラ国……東方コロマンデル海岸地方(首都ウライユール)
      • パーンディヤ国……半島南端(首都マドゥライ=今のマドゥラ)
      • チェーラ国……西方マラバ-ル海岸地方(首都ヴァンジ=今のカルール?)。古くは「ケーララ」と呼ばれた。
  • 紀元前後
    • タミール語のシャンガム文献。ドラヴィダ語で最古の文字記録。
  • 1~2世紀
    • テルグ族の祖先が建てたサータヴァーハナ朝アーンドラ王国がローマ帝国との貿易で繁栄、アラビア海からベンガル湾に及ぶデカンの大部分を支配。
  • 5~7世紀
    • タミール人のパッラヴァ朝が繁栄。
    • タミール文学も発展。
  • 7~9世紀
    • チャールキヤ朝、パッラヴァ朝、パーンディヤ朝の3国が互いに抗争。
    • この時代に、シヴァやヴィシュヌに一心に愛を捧げ、全てを委ねるバクティ運動が開始、大衆的性格の宗教改革として広まりを見せる。
  • 633
    • テルグ語最古の資料である碑文が建てられる。
  • 8世紀
    • タミール人のパーンディヤ王国が勢力を増す。
  • 9世紀頃
    • ケーララ州のマラヤーラム語がタミル語から分かれる。
  • 10世紀
    • マラヤーラム語の最古の碑銘。
  • 10~11世紀
    • タミール人のチョーラ朝が急激に勃興、スリランカ(セイロン)からガンジスに至るインド半島部の大半、ビルマ (ミャンマー) のペグー朝、スマトラのシュリーヴィジャヤ王国までを支配する大勢力に。
  • 12~13世紀
    • タミール系パーンディヤ王国が復興、南インド最強の国になり、チョーラ朝を併合。
  • 14世紀初め
    • 北インドのイスラム王朝ハルジー朝の南方攻略で南インドのヒンドゥー諸国は滅亡の危機に。
  • 14~16世紀
    • 南インド一帯は、テルグ族のヴィジャヤナガル王国の勢力下に入り、ヒンドゥー文化を守り通す。
    • 但しタミール文化は衰え、代わってテルグ文化が栄える。
    • また、北インドのバラモン僧たちがイスラムの支配を逃れてやってきたため、サンスクリット文化がもたらされた。
    • そのため、これ以降現代に至るまで南インドではサンスクリットとテルグ語文化が中心に展開されてゆく。
  • 19世紀
    • インド南部のタミール人が、イギリスによる紅茶プランテーションの労働力として、スリランカに移住。

2.3 インダス文明とガンジス文明

1.アーリヤ人とは
  • 前1500年頃、北西部からインダス流域に侵入した印欧語族の一派。前1000年頃、ガンジス流域に進出しインド亜大陸に広がってインド社会を形成した。
  • 別な一派はイラン高原に入り、ペルシア文化を形成した。
2.アーリヤ人のインド侵入
  • アーリヤ人は、前1500年頃、原住地のコーカサス地方からイラン、アフガニスタンを経て、カイバル峠を越えてインドの西北、インダス川流域のパンジャーブ地方に入り、 さらにガンジス川流域に広がった征服民族である。
  • 彼らの移動の原因は不明であるが、気候の寒冷化が考えられている。
  • 彼らはインド=ヨーロッパ語族に属し、白色・高鼻で身長が高いのが特色。騎馬戦士と戦車を使って先住民族であるドラヴィダ人らを征服しながら、前1000年頃には居住地域を東方のガンジス川流域に拡大させた。アーリヤ人の伝承であるヴェーダの神々への信仰からバラモン教が生まれ、そこからヒンドゥー教が発展する。
  • また彼らの征服の過程で、カースト制社会が形成されたと考え
3.インダス文明とは
  • 3500 BCごろ、イラン東部の高原からインド西北の平野部へ、ドラヴィダ人の先祖(地中海人種)が侵入して、インダス文明を築いた。
  • 2300~1800 BCごろ、インダス文明は最盛期を迎え、水、牡牛、菩提樹の神聖視、リンガの崇拝、獣神としてのシヴァ神(浮彫がある)信仰、ソーマ(神聖酒)信仰などの 現在のインドの伝統の起源となった。
  • 1500 BCごろ、アーリア人が侵入し、インダス文明は崩壊して、ドラヴィダ人は南下を開始した。
  • しかし、かつてはアーリア人の侵入によってインダス文明が滅ぼされたと説明されているが、最近の研究ではインダス文明はアーリア人の侵入の200年ほど前に、 何らかの理由(おそらくインダス川の氾濫などの自然要因)で滅亡したのであり、アーリヤ人の侵入とは無関係とされるようになっている。
  • もともと「アーリヤ」とは「高貴な人」を意味した彼らの自称であり、彼らは先住民を「ダーサ」(やがて奴隷の意味になる)として区別した。
  • アーリヤ人はパンジャブ地方で先住民と融合しながら、牧畜民の生活から農耕技術を身につけ、より肥沃な土地への移動をもとめたらしく、紀元前1000年頃からガンジス川流域に移住し始め、農耕社会を形成していった。
  • この時期にリグ=ヴェーダに続く3ヴェーダが編纂されたので、前1000~前500年頃まを「後期ヴェーダ時代」という。この農業社会の形成過程でアーリヤ人社会にヴァルナ制、さらにカースト制が発展したと考えられる。
  • このインドのアーリヤ社会では最古のヴェーダ時代のバラモン教と結びつき、さらにヒンドゥー教に深化して深く浸透した。
4.ガンジス文明とは
  • アーリヤ人はパンジャブ地方で先住民と融合しながら、牧畜民の生活から農耕技術を身につけ、より肥沃な土地への移動をもとめたらしく、紀元前1000年頃からガンジス川流域に移住し始め、農耕社会を形成していった。
  • この時期にリグ=ヴェーダに続く3ヴェーダが編纂されたので、前1000~前500年頃まを「後期ヴェーダ時代」という。
  • この農業社会の形成過程でアーリヤ人社会にヴァルナ制、さらにカースト制が発展したと考えられる。
  • このインドのアーリヤ社会では最古のヴェーダ時代のバラモン教と結びつき、さらにヒンドゥー教に深化して深く浸透した。

2.4 海洋民族になったドラヴィダ語族

1.アーンドラ族のこと
  • アーリア人が印欧語族のほりの深い白人系なら、ドラヴィダ人は古モンゴロイドである。
  • ドラヴィダ系諸族のうち、歴史に最初に現れるのはアーンドラ族である。
  • 彼らの築いた王朝は一般にアーンドラ朝と呼ばれるが、王家の名前を取ってサータヴァーハナ朝とも呼ばれる。

  • サータヴァーハナ朝の最大領土
    世界史の窓:サータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)から
  • サータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)は、前1世紀~後3世紀、インド中部のデカン高原一帯を支配したドラヴィダ人の王朝である。
  • バラモン文化、仏教をともに保護し、広くインド洋交易を行った海洋民族である。。
2.海洋民族であるアーンドラ族
  • 海洋民族であるアーンドラ人は、遠くローマやエジプト、東南アジアと広く貿易し、南インドでローマ帝国時代の金貨が大量に発見されている。
  • アーンドラ朝の名は、ローマ帝国の記録に出ており、世界史上にちゃんと残っている。
  • 海洋民族であるアーンドラ人は、ローマやエジプト、東南アジアと広く貿易した位なので、遠く日本や朝鮮あたりまで来た可能性がある。

2.5 接触言語と比較言語学

1.ピジンとクレオール
  • ピジンとは
    • ピジンとは「アフリカやアジア、オセアニアなどの諸国で、共通の言語を持たない人々の間の、ある局限的なコミュニケーションの必要性を充足させる限定的な混合言語のこと」であり、接触英語とも呼ばれる。
    • 例えばパプア・ニューギニアやカメルーンの英語、それから中国でも福建省で「Chinese pidgin English」というものが生まれた。
  • クレオールとは
    • ピジンがもっと進化して、公式な言語となったものである。
    • 例えばシンガポールの英語(シングリッシュ)、ジャマイカの英語、ハワイアン・ピジンなどである。
  • 「McMahon and McMahon」は,19世紀以来発展してきた比較言語学は,いまだ科学的な言語学たりえていないと考えている。
  • いままで以上に客観的な方法論,とりわけ量的な手法を開発していくことが肝心だと主張する。
  • 主張の背景として,以下の3つの問題を指摘する
  • 1つめの比較言語学の問題
    • 1つめは,同じ語族に属する2つの言語について系統的にどのくらい近いのか,遠いのかを問われても,比較言語学者は客観的に答えることができないことだ.
    • 系統図を描いて,2つの言語の相対的な位置関係を示すことはできたとしても,言語的にどの程度の距離なのかを客観的な指標で伝えることができない.
    • たとえば,英語,フランス語,スペイン語を知っている話者であれば,それぞれの距離感について主観的には分かっているだろうが,それを他の人に伝えるのは難しい.
    • そのようなことを客観化して示せるのが,科学の強みだったはずではないか.言語間の関係の数値化がなされなければならない.
  • 2つめの比較言語学の問題
    • 2つめは,言語接触と借用の問題をクリアできていないことだ.
    • 比較言語学にとって,言語接触による借用は頭の痛い問題である.
    • 純粋な音韻法則を適用していく際に,借用語の存在は雑音となるからだ.
    • それによって系統図の描き方に悪影響が及ぼされる可能性がある.
    • 比較言語学者は,この悪影響を最小限に抑えるべく,借用語を同定し,比較対照すべき単語リストから除外するなどの対策を講じてきたが,そのようなことは言語証拠の多い印欧語族だからこそできるのであって,そうではない語族を前にしたときには使えない対策である.
    • 借用に関する事実も,後に一般化することを念頭に,量化しておく必要がある.
  • 3つめの比較言語学の問題
    • 3つめは,再建 (reconstruction) を含む比較言語学の専門的な手法が,マニュアル化されていないことだ.
    • 諸言語のことを学び,音変化に精通し,直感にも秀で,再建の経験を積んだ者にしか,再建の作業に加われない.
    • "essentially a heuristic, and hence irreducibly knowledge- and experience-based [method]"なのである.
    • たとえば,2つの音がどの程度似ていれば妥当な類似とされるかの合意はない.
    • 同じデータを前にした2人の比較言語学者が同じ結論に達するとは限らないのである.
    • その意味では,比較言語学は「科学」ではなく,「技芸」にとどまっているというべきである.
    • この指摘は,「語源学は技芸か科学か」 ([2010-08-06-1]) や「語源学は技芸が科学か (2)」 ([2014-03-23-1]) の議論を思い出させる.
  • このように McMahon and McMahon はなかなかクリティカルだが,論文では具体的な量化の方法を開発してみせようとしている.

以上

3.タミル語からの日本語単音節の生成

3.1 対応語の比較表

1.母音の対応
日本語 意味 タミル語
a a, a^
af-are哀れav-alam
as-iat-i

3.2 対応語の比較表2

以上

4.シュメール人とタミル

4.1 インダス川から縄文時代の日本列島に

この記事は、「 インダス川から縄文時代の日本列島に 」を引用しています、

1.インダス文明もシュメール人が築いた
  • インダス文明(ハラッパー文明)は4,600年前から3,500年前にインドとパキスタンを流れるインダス川流域に栄えた都市文明である。
  • インダス川上流や支流のアフガニスタンにも遺跡が残っている。
  • インダスとメソポタミア(現在のイラク)の間にあるイラン高原にはエラム人が住んでいて東西交易を担っていたので、インダスとメソポタミアは盛んに交易をしていた。
  • メソポタミアのシュメール文明は古く、5,500年前から4,000年前に栄えた。
  • 私見ですが、インダス文明もシュメール人が築いたと考えています。
  • インダスとシュメールがエラム人を通さずに直接交易する場合は海上航路を利用した。
  • シュメールにとってインダスが「エデンの園」だったのではないでしょうか。
2.インダス文明もシュメール人が築いた
  • そのインダス文明はドラヴィダ人(Dravidian)が興した文明ではないかと考えられているので、私見ではシュメール人とドラヴィダ人は同じ種族になります。
  • ドラヴィダ語とシュメール語は共通性があると云わているので、シュメール人がインダスに来てドラヴィダ人になったのではないか。
  • 或いはドラヴィダ人がメソポタミアに移住してシュメール人になったのかもしれない。
3.ドラヴィダ人は、縄文人、沖縄人、アイヌ人に似ている
  • 3,500年ほど前に欧州系のアーリア人がパキスタンとインドに侵入したことにより、ドラヴィダ人はアーリア人に支配されたが、インド南部のドラヴィダ人は古くからの文化を保っている。
  • ドラヴィダ人は古くからインドに定住した民族で、現代では南インドを中心としてインド全土に居住し、スリランカ、バングラデシュ、マレーシア、シンガポール、モルディブ、そしてアフリカ寄りのマダガスカル島、セーシェル諸島などにも居住している。
  • イギリスの植民地時代に労働力として移住させられた人も多いでしょう。
  • ドラヴィダ人の特徴は二重の丸い大きな目、彫の深い顔、肌が黒く、身長は低いが手足が長く、体毛は濃く、髪の毛はカールしたり縮れている。
  • この特徴は肌の黒さ以外は縄文人、沖縄人、アイヌ人に似ている。
4.ドラヴィダ人は、縄文時代後期に日本列島へやって来た
  • そのドラヴィダ人が3,500年ほど前の縄文時代後期に日本列島へやって来たと云う説がある。渡来数は少ないが、ドラヴィダ人が鉄や青銅を持ち込み、焼畑農業を行ったと云う。
  • ただし、DNA分析ではドラヴィダ人と日本人は近い部分はあっても一致する部分はない。
  • 天皇を大和言葉ではスメラミコトと云うが、スメラ(皇)はシュメール(スメル)ではないかと云う説もある。
  • 天皇家の菊花紋はシュメールを含む中近東の王族の紋と同じである。
  • やがて2,500年前になると、揚子江(長江)周辺の江南人(倭人)が数百年に亘って波状的に日本列島に逃れて来て、列島は縄文時代から弥生時代に移行していく。
  • ドラヴィダ語の一種のタミル語と日本語は似ているようで、生活習慣や文化も似ているようだ。ドラヴィダ人は戦争も少なく、平和な商人中心の文化だったようだが、その点も縄文人と共通性がある。
  • 紀元前334年に越が楚に敗れ、越人(倭人)の多くがインドや東南アジアに逃れて、その地に言葉・文化を残しているので、ドラヴィダ人の生活地域にも倭人語や甕棺墓が残された。
  • この倭人繋がりで日本とドラヴィダの共通性も考えられる。
  • また、海の民のドラヴィダ人が沿岸部に港町を造り、交易を行い、縄文時代の日本列島までやって来たのではないでしょうか。

4.2 シュメール語・エラム語・タミル語・日本語など膠着語の共通性

この記事は、「 シュメール語・エラム語・タミル語・日本語など膠着語の共通性 」を引用しています、

1.膠着語の共通性
  • シュメール語・エラム語・タミル語・日本語など膠着語は、いずれも接辞が語幹について語を増やし、また文法機能を果たすという共通性があります。
  • 日本語では「う(有)」「く(来)」「す(為)」「つ(為)」「ぬ(存在否定)」「ふ(経)」「む(見)」「ゆ(由)」「る(ユと同じ)」などウ段の単音節の動詞から進化した接辞が語幹について「買ふ(買う)」「行く」「射す」「立つ」「いぬ(去ぬ←存在+ない)」「問ふ」「咬む」「いゆ(癒ゆ)」「刈る」などの2音節動詞をつくり、さらに接辞が重なって多音節動詞が派生したと思われます。
2.膠着語の共通性
  • 印欧語などの屈折語の活用も、もとは接辞だったのではないでしょうか。
  • 言語学者ボップによれば、英語とドイツ語の規則変化動詞の語尾「ed」「te」は動詞「do」「tun」(いずれも「する」)の過去形「did」「tat」(した)に由来するといいます。
  • もともと動詞の時制は不規則動詞「sing~sang~sung」の活用のように、音韻変化で表現していたのが、動詞が増えるにしたがって、音韻変化では対応しきれなくなり、「ed」「te」を接辞として使うことで、時制を表したのでしょう。
  • 幼児が最初は単音節の1語文で話し始め、やがて2語文で意味を明確にするように、太古の人も単音節の単語をつないで複合語をつくったり、さらに単語を並べて2語文をつくったりして複雑な内容を表現するようになったのでしょう。
  • よく使われる単語は、文法化で抽象的な文法機能語(助詞、助動詞)になったのでしょう。
3.大野晋氏の説
  • 大野晋氏の説では、タミル語にも日本語と同じ「こ」「そ」「あ」「ど」言葉があると書かれています。
  • 日本語の「こち」「あち」「をち(遠)」「そち」「どち」は「近接の接辞こ(此)+ち(路)」「あ(彼カの子音欠落?)+ち」「そ(其)+ち」「いづ(疑問)+ち」と分解できます。
  • 共通言語説「ユーラシア言語説」や「ノストラ語説」には説得力があります。
  • 【大野晋氏の日本語タミル語同系説】
  • 助動詞の配列順序が同一である
    • Nata(動詞)・tta(使役)・ppat(受身)・tatt(完了)・um(推量)・ kollo(疑問)
    • 行か(動詞)・せ(使役)・られ(受身)・たら(完了)・む(推量)・か(疑問)
  • 助詞・助動詞は22語も対応する
    • 格を表すのにも日本語の助詞に相当する接尾辞が用いられる。
    • また日本語の「こ・そ・あ・ど」にちょうど相当する4種の接頭辞i、u、a、e がある。
    • vaḻi 「道」に対して、ivvaḻi 「この道」、uvvaḻi 「その道」、avvaḻi 「あの道」、 evvaḻi 「どの道」。
    • ただし、uは古語および擬古体で用いられ、普通の現代語では用いられず、「その」はaにより代表される。
4.子音の組み合わせ(HR)が基本的な意味を決め、母音で意味が分化する
  • 野蒜(のびる)はニラやニンニク、ネギなどと似て、健康物質アリシンを含んでいます。
  • 「ひる」は「蛭(ひる)」「ひら(平←手+ひら)」「ひろ(広)」「へら」「ひれ」などと似て、扁平に広がった状態や物を意味します。
  • 「はら(原、腹)」「ほら(洞)」「ほる(掘る)」は「空間を広げる」意味が共通します。
  • 子音の組み合わせ(HR)が基本的な意味を決め、母音で意味が分化する現象は、セム語、印欧語など世界の言語に共通します。

4.3 シュメール人とラピュタ人と日本人

この記事は、「 シュメール人とラピュタ人と日本人 」を引用しています、

1.海洋民族ラピュタ人に結びつくシュメール人
  • ウルク期の後期に突如として現れる出自不明のシュメール人が、海洋民族ラピュタ人に結びつく人々だったとしたら、その文明が高度であったことも納得できる。
  • チグリス・ユーフラテス川を源流までさかのぼると、「アサド湖」と「ハザル湖」にたどり着く。
  • その中間地点にあるのが、世界最古の祭祀遺跡とされるギョペクリペテ遺跡。
  • ギョペクリペテ遺跡には、イースター島のオロンゴ文明の死生観や、その中心的存在である鳥人のレリーフが刻まれており、祭祀の跡と思われる盃状穴も見られる。
  • 海洋民族ラピュタ人の元になったと考えられるポリネシア人の痕跡が残る世界最古の遺跡が、このシュメール文明が栄えたメソポタミア北部にあるのは偶然ではない。
  • シュメール神話では、シュメールの人々に知恵を授けて信仰儀礼の正しいあり方を説いた7人の賢人、「アプカルル」という存在が登場する。
  • アプカルルは、昼間は陸に上がって、読み書き・工芸・科学等の知識を人に教えて、夜になると海に帰っていった。
  • そして、石板では半魚人のような姿として描かれている。
  • 海から来た海洋民族が、シュメールの人々に知恵を伝えていったことが神話からもうかがえる。
2.3つの海洋民族:「ディルムン」「プント」「マガン」
  • また、世界最古の神話が記されたギルガメシュ叙事詩には、「ディルムン」「プント」「マガン」という3つの海洋民族が登場する。
  • この3つの海洋民族がウバイド族と混じりあって、シュメール文明が形成されていった。
  • 「プント族」は、古代エジプトのヒクソス王朝の歴史に現れる地中海から紅海を地盤とする海洋民族。
  • 現在はアフリカの東海岸地帯でソマリアの国を作った一族。
  • 「ソマリア」の語源は「シューメリアン」。
  • 「マガン族」は、インドネシアを拠点とし、メコン川周辺にシュメール文明を伝えて、メコン文明を再構築し、後のアンコールワット遺跡等を残した。
  • 丸に十字のスワスチカのマークを旗に掲げ、大蛇神「ナーガ」をトーテムとしていた。
  • 「ディルムン族」は、パキスタンのモヘンジョダロやインダス文明のハラッパ遺跡の付近にあった「マドゥラ」を海都とした。
  • ディルムン族は、元々は海洋民族ラピュタ人であり、日本にも来ていた。
  • ギルガメシュ叙事詩で、ギルガメシュ王の犯した罪の罰として、親友・エンキドゥは女神イシュタルに殺され、ギルガメッシュは嘆き悲しみ、神に不死の方法を尋ねる。
  • 神は、その薬は「ディルムン」と呼ばれる島にあると答え、その行き方をギルガメッシュに教える。
  • 「ディルムンの島は、太陽の出る国を目指して、太陽の道に沿ってひたすら進みなさい
  • 東の果てに仙人が住む国にたどり着く」
  • 仙人というのは、洪水伝説の主人公ウトナピシュティム。
  • 彼は、アヌンナキから永遠の命をもらって、東海の蓬莱山の火口に住んでいた。
3.都市ウルク
  • 都市ウルクは北緯32度。
  • ずっと東へ行くと中国大陸の東端は上海あたり。
  • その先には九州があり、熊本が北緯32度。
  • 熊本がディルムン島だとするならば、海洋民族ディルムンは、九州を拠点にしていたことになる。
  • 彼らがシュメールの流れをくんでいたとすれば、シュメール語と日本語が同じ膠着語であった謎も解ける。
  • しかも、海洋民族ラピュタ人の痕跡であるペトログリフやドルメンなどの巨石遺跡は、九州に多く見られる。
  • ということは、ディルムン族は海洋民族ラピュタ人だったという可能性も十分考えられる。
  • ディルムンの海都マドゥラは、日本では「松浦」「マツラ」と訛った。
  • 「マツラ国」(末羅国)は、中国の魏志倭人伝にも登場する古代の日本の地名。
4.タヒチの近くの「ナンマドール」遺跡
  • また、タヒチの近くには「ナンマドール」という遺跡があり、この神殿は、この島にはない石で作られている。
  • 島の東西南北に同じ神殿が建てられていた。
  • 「ナン」は「ようこそ」と言う意味なので、ナン・マドールは、「ようこそマドールへ」という意味になる。
  • マドーラは、海都「マドゥラ」がなまった言葉なのではないかとも言われている。
  • もし、日本ではなく、このナンマドール遺跡が海都マドゥラだとしても、ディルムン族は海洋民族ラピュタ人の本拠地ともいえるポリネシアを主に活動していたことになり、ディルムン族=ラピュタ人の可能性は高い。
  • このように神話などからシュメール人・海洋民族ラピュタ人・日本人のつながりを推測することができるが、実際にそのような証拠は残されているのだろうか。

以上