歴史のお勉強:徳川家康

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1.What's new

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有害な役所一覧

税金の無駄使いで日本の借金を世界一に増やしている無能な日本の役所の言う事を聞いていたら、早く死ぬハメになるゾ。

1. 国交省:国土破壊省
  • 街路樹や道路際の桜や銀杏の木を破壊し、自動車の健康を優先し人間(国民)の健康を害し、多くの高齢者を死に追いやっている役所
  • 何十年も前に先人が植えた街路樹や道路際のプラタナスや桜や銀杏の木を切るのは、有史以来の悪魔の行為だ
  • 脱炭素化時代で、炭酸ガスを吸収する先人が植えた街路樹や道路際のプラタナスや桜や銀杏の緑は、最も重要な資源なのに、この役所は時代に逆行しているアホだ

改定履歴

2.世良田元信

2.1 徳川氏発祥の地・世良田東照宮

世良田東照宮とは
  • 世良田東照宮は、群馬県太田市世良田町に鎮座しています。
  • 世良田の地が徳川氏発祥の地と云われている由縁から、寛永21年(1644)に創建されました。
  • 三代将軍家光公による日光東照宮の大造替時、社殿が移築。
  • その社殿は日光東照宮創建時に二代将軍秀忠公によって建てられた奥社(拝殿・唐門・御廟)のことを指しています。
  • 数ある東照宮の中でも世良田に移築されたことは、この地が徳川氏発祥の地として重要視されていたことを物語っています。
徳川家の系図
  • 鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖にあたる源義家の孫の義重が上野国新田荘(現群馬県)を治めるようになり、新田義重と名乗ります。
  • 義重の死後、その領地の内、徳川郷・世良田郷・他4郷を義重の子である義季が受け継ぎ、徳川義季・世良田義季と称したのが徳川氏の始まりです。
  • 義季より9代目の親氏は足利氏の討伐により先祖の地を追われ、諸国を流浪または転戦の後、松平信重の娘を娶った縁により松平郷(現在の愛知県)に土着、松平親氏と名乗ります。
  • その松平親氏から更に9代目に徳川家康公が生まれます。
  • 家康公は25歳の時、祖父清康が新田源氏徳川氏庶流世良田姓を称していることを知り、自らの出自にあやかり松平姓から徳川姓を名乗るようになりました。

2.2 世良田元信とは

父親である、三河大名、松平元康(岡崎城主)に、桶狭間(おけはざま)の合戦(1560(永禄3)年5月)のあと、「息子殿の信康を、無事にお連れしました。私共も家来になりまする」と、まんまと、岡崎城を入り込んだ男がいる。

そして、この男が、その年のうちに、城主の元康(もとやす)の油断の隙と突いて、殺して、摩り替った。

その後、この男は、すべて信長の指図で、とんとん拍子で、徳川家康に成り代わった。

本名を、世良田元信(せらだもとのぶ)という。戦場忍者である。

父親は、上州(群馬県)の世良田村から、駿府(すんぷ。今の静岡市)に流れてきていた同じ、戦場忍者(願人坊主、がんじんぼうず。ササラ者)である。 

摩り替ったあとの元康(別人)は、それまでの、駿府(すんぷ。静岡県)を中心とした駿河(するが)の国の大(だい)大名だった今川(いまがわ)方から離れて、尾張大名の 織田信長 の配下に入った(1561年4月)。

従って、その翌年、1562(天正5)年1月の、清州城(信長の本拠。名古屋城はまだない)での、×「織田と徳川の 清州同盟」というのは、噓(うそ)っぱちの、歴史の捏造だ。

真実は、松平元康(もとやす)に摩り替った男が、清州城に出頭して、信長と、主従の、親分・子分としての固めの杯(さかずき)を、交わしたのである。

今も、現在でもも、まだ尾張名古屋(おわりなごや)の徳川公爵家(とくがわこうしゃくけ)からの策謀と、歴史捏造の圧迫が、続いている。

それと、信長を、1582(天正10)年6月に、イエズス会(耶蘇=やそ=教。現在もローマカトリック教会の中心の宗教セクト) が爆殺したことを、覆い隠すために、 「ウソの家康」像づくりが、強力に進行している。

だから、「どうする家康」などという奇妙なNHKの大河ドラマになっているのだ。

徳川公爵家としては、自分たちの先祖で、創業者(ファウンダー)である家康が、下層の、賤民(せんみん)の出の、戦場忍者であった、と、日本史の知識として、大きく日本国民に、バレて、満天下に露見することが、物凄くイヤなことなのだ。

だから、NHKまで動かして(使嗾=しそう=して)、捏造の日本戦国史を、偽造し続けている。

この歴史の真実の隠ぺいの努力は、物凄いものであって、摩り替った1561年から462年たった今でも、まだ、頑強に、続いている。

そのために、東大の国史(こくし。東大だけは、日本史学科と言わないで、威張って、国史科と言う。東大史料編纂所も持つ)に、ひとり、家康像の捏造の係の教授がいる。代々、いる。

その背後に、ローマ・カトリック教会の本山のヴァチカンから派遣されている、日本語が出来る、神父(司教、ビショップ)がひとりいる。

この男が、日本の文科省の、国語と歴史教科書の内容を、監視していて、日本国民の教育場面からの、洗脳を、今の、今でも、実施している。恐ろしいことである。

だから、1563年の9月から(翌年の2月に鎮圧された)、三河の国一帯で起きた、「三河一向一揆」と呼ばれる騒ぎも、ただの宗教一揆(民衆暴動)ではない。

真実は、「あのお方は、我らのお殿様の、松平元康どのではない。別人じゃ」と、騒ぎ出した、三河の地侍(国人=こくじん、くにうど)たちを中心とした、叛乱だ。

戦国史のなかで、極めて不思議な動きをし続ける、家康が重用(ちょうよう)して、長年、失踪ののち、重臣に返り咲いた、本多正信(ほんだまさのぶ) も、石川数正(いしかわかずまさ。松本城主で終わった)も、この反(はん)家康の、反抗勢力の指導者だった。

不思議な経緯で、秀吉と家康で、何からの手打ち(妥協)があったのだろう。

秀吉(信長の草履(ぞうり)取り。小者=こもの=から這い上がった下層民の出)は、この家康の摩り替りを知っていたが、それを、不問にする、ということで、2人の重臣を、自分との2重スパイ(ダブル・ロイヤリティ。2重忠誠心)として、家康に送り返したのだろう。

これは、今の時点での、私、副島隆彦の考えである。

それから 17年経(た)って、もう、要らなくなった、築山殿と信康を、1579(天正7)年に、殺害した事件について、松永知彦君が、検証する。

家康に、この年、浜松城で、西郷の局(お愛。伊賀忍者の棟梁、”掛塚(かけづか)の鍛冶屋の平太”服部平太夫=はっとりへいだゆう=の娘)に男の子が産まれた。

それが、秀忠(ひでただ)で、後の徳川2代将軍である。

この秀忠が生まれたから、もう、こいつらは、無用だ、で、築山殿と、松平信康(岡崎城主)は殺害された。

以上、ここまでを、副島隆彦が、5月14日に、加筆も何も、全部書いた。

ここから下の、以下の文が、松永友彦君の文です。副島隆彦の加筆終わり )

松永知彦です。当初、NHK大河ドラマ「どうする 家康」の瀬名姫(三河大名で岡崎城主の 松平元康の正室 )が、今後を見極めてから書こうと思っていたが、先月の4月23日に、副島先生から、このことの真実を 書くように指示を頂いたので、ここに投稿することにした。

本題に入る前にひとつおことわりをしておきます。

今回の投稿文は、今年の二月にわたし松永が投稿した「重たい気持ちで書く掲示板[3516]」の続編になります。

さらに再掲載として「今日のぼやき[2039][2040]に過去の論文も掲載していただいております。

重掲[3516]では、歴史の隠された真実として徳川家康と松平元康はまったくの別人であるということを説明している。

正史では、「竹千代→松平二郎三郎元信(まつだいらじろざぶろうもとのぶ)→松平蔵人元康(まつだいらくろんどもとやす)→徳川家康」とひとりの人物が次々に改名していることになっているが、竹千代から元康までと徳川家康とは間違っても同じ人物ではない。絶対に、である。

築山殿(以下瀬名姫)と信康惨殺事件の鍵ともなる重要な真実である。

未読の方は重掲[3516]だけでも先に目を通してもらえると、より理解していただけると思います。

瀬名姫と信康の惨殺事件は、間違いなく家康の生涯において、最大の事件のひとつであろう。(あくまで正史上では、だが。)

その正史上伝えられるこの事件は次のとおりである。

瀬名姫が、武田勝頼と内通し徳川・織田を亡きものにしようと謀り、未遂に終わるもその証拠となる瀬名姫の誓書(せいしょ)と武田勝頼の起請文(きしょうもん)を押収。

幽閉先である築山に出入りしていたという唐人医師・减敬(げんけい)と瀬名姫との不義密通の疑い。

及び信康の乱心ともとれる粗暴なる振る舞い。

それらを徳姫(五徳;ごとく=織田信長の娘)が父信長に、いわゆる徳姫の『十二か条の書き立て』といわれる書状で訴えたことにより露見、信長が家康重臣の酒井忠次と奥平信昌に問い詰めるも十二のうち十までは否定しなかったため、信長の命により、ふたりを処分せざるを得なかった、というものである。

すぐにいくつかの疑問が生じる。

まず、そもそも瀬名姫と信康に謀反や反逆の意思があったのか、ということである。

瀬名姫は正室であり信康は嫡男である。

別段何もしなくてもその地位は安泰なのだ。何ゆえ謀反の謀事なのか。

もし本当に謀反や反逆の意思があったのなら、家康とふたりの間にその原因となる何かがあったということになる。(史疑徳川家康事蹟)

次に、本当に家康に対する謀反・反逆の企てや减敬(げんけい)との不義密通があったのなら徳姫が直接信長に訴える前に当然家康の耳に入るであろう。

身内の恥をみすみす信長に直訴させるであろうか。大事になる前に内々に処理をしようとするはずである。

そして、やはりいくら主君信長の命令(ということに正史上はなっている)とはいえ、果たして正室と、清康公(きよやすこう・松平元康の祖父)の再来とも言われ武勇の誉れ高い(※後述する)嫡男の二人を同時期に殺害するものだろうか。妻子である。

信長も本当にそのような命令を下したのであろうか。

ましてこの時代であれば、女人なら尼に出家させ、男子も同様に出家させ放逐することもできたであろう。

還俗(げんぞく)し舞い戻る可能性もあるが。

これらは、最初にごく普通に持つ素朴な疑問である。

だから多くの歴史学者や歴史愛好家らが皆同じ疑問を持ち長年首を傾げてきたのである。

これから、わたし松永がこれらの疑問に対するわたし自身の解釈を、文献を引用しながら書き述べていく。

この事件の真実はどうであったのかを追求していく。

では、まず瀬名姫の名誉回復からおこなう。

ここに瀬名姫が唐人医師・减敬(げんけい)に託したという武田勝頼に宛てた誓書を『史疑・徳川家康事蹟(村岡素一郎(むらおかもといちろう)』から引用する。

<引用開始>

信康は我が子なれば、いかにも、徳川、織田の両将は、わらは計らう手立て候得ば、かまへて失い申すべし。

此の事成就せむに於いては、徳川の旧領はそのまま信康に賜りなむ。

又わらわ事は、御被官の内にて、さりぬべき人の妻となし給ふべきか、

この願い事かなへ給はば、かたき御請文を賜るべし、

いまより信康を教訓し、御味方につけ申すべき也との事也

(信康は我が子なれば、いかにも、徳川、織田の両将は、私が計らうてだてがございます故、かならず、亡きものにしてみせます。

このことが成就したときには、徳川の旧領は、そのまま信康に賜りますよう。

また私のことは、御家臣のうちで、適当なお方の妻にお世話くださいませ。

私のこの願いをお受けいれくださるならば、固い御請文を頂きたく存じます。

今より、信康を教訓して、お味方につかるように致します。)

<引用終了>

続いて、この誓書に対する返信である武田勝頼の起請文を、同じく『史疑・徳川家康事蹟(村岡素一郎』から引用する。

<引用開始>

今度减敬に仰越され候趣、神妙に覚候、

何としても息三郎殿を勝頼が味方に申進め給ひ、はかりことを相構え、信長と家康とを討亡し給ふに於いては、家康の所領は申に不及、信長が所領の内何れなりとも望にまかせて、一か国新恩としてまいらすべく候、

次に築山殿をば、幸いに郡内の小山田兵衛と申す大身の侍、去年妻をうしない、やもめにて候ば、彼が妻となしまいらすべく候、

信康同心の御左右候はば、築山殿を先立て甲州へむかひとりまうらすべく、右之段相違するに於いては、

罸文略之

 天正六年十一月十六日                    勝 頼 血 判

(今度、减敬を通じて申し越されたことについては、しかとわかりました。

何ともして、御子息三郎殿に、勝頼の味方になるよう説き進められて、謀をたて、信長と家康をうちほろぼしたうえは、家康の所領は申すに及ばず、信長の所領のうち、どこでも、お望みにに任せて、一カ国を、新恩としてさし上げましょう。

つぎに築山殿は、ちょうど、小山田兵衛という大身の侍が、昨年、妻を失い、やもめでおりますので、その妻にお世話いたしましょう。

信康に同心のご家来がいるならば、まず、築山殿を、先に甲州にお迎え入れいたしましょう。)

<引用終了>

松永知彦です。この誓書と起請文は現存していないため、原文がどのようなものであったかはわからない。

また、信頼のおける一次資料にも記載がないので、現在手に入る書籍でしか確認できないし、ものによって若干表現の違いもある。

わたし松永は『史疑・徳川家康事蹟(村岡素一郎)』の文章がもっとも原文に近いと思うので、ここからの引用とした。

村岡素一郎氏は、その著書『史疑徳川家康事蹟』の中で、この誓書は瀬名姫が自ら書き記したものとし、「築山殿親子は、松平氏の孤児、未亡人なのであって、家康と夫婦骨肉の関係がないことは火を見るよりも明らかである」としている。

徳川とは関係ないと自ら書いているとの解釈に異論はない。

だが、わたし松永はこの誓書は瀬名姫自身が書いたとは思っていない。

勝頼の起請文は自筆であったと伝わってはいるが、こちらも勝頼が書いたものではないと思っている。

先に言っておくが、実はこの誓書と起請文は、高柳光寿博士(たかやなぎみつとし;1892.3~1969.1、歴史学者で國學院大學教授)が『青史端紅(せいしたんこう)』ですでに偽書との見解を示している。

桑名忠親名誉教授(くわたただちか;1902.11~1987.5國學院大學)や、現在NHK大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を担当されている小和田哲男静岡大学名誉教授も、信頼のおける資料にこれらの記述はないとして、歴史学会では早くから偽書と判定している。

が、そこまでである。

そこから先は歴史学者の皆様方は絶対に踏み込めない。

認められない、認めてはいけない真実に近づいてしまうからだ。

書かれている内容を細かく読み解いていくと確かに徳川と松平が別のものであるという結論に至るのである。

わたし松永が詳しく解説し、その先の真実へ突き進んでいく。

第一に、この誓書では、「信康は我が子なれば、いかにも、徳川、織田の両将は、」との書き出しから始まる。

信康は我が子であるから「信康」だが、徳川はなぜ「徳川」と苗字なのか。

しかも「織田」と横並びで他家扱いである。

夫であるなら、例えば「家康殿」とか「我が夫、家康」などではないのか。

この誓書を書いた何者かは、確かに、徳川と、瀬名姫、信康の二人がそれぞれ夫婦、嫡男ではないと、この冒頭ですでに告白してしまっている。

第二に、「徳川、織田の両将は、わらは計らう手立て候得ば、かまへて失い申すべし。(徳川、織田の両将は、私が計らうてだてがございます故、かならず、亡きものにしてみせます。)」というくだりについてだが、瀬名姫自ら策を計って両将を討つのなら、なにも武田に「徳川の旧領はそのまま信康に賜りなむ。(徳川の旧領は、そのまま信康に賜りますよう。)」などと断りを入れる必要はない。

しかもこのくだりは女性である瀬名姫が書いたとはどうしても思えないのだ。

築山という幽閉先に蟄居(ちっきょ)させられ、侍女は居るが、たまに訪ねてくるのは信康と唐人医師・减敬(げんけい)ぐらいであったという。

そのような状況下で、徳川のみならず織田まで討ちとる計略がある、などと書けるであろうか。

例えば、「家康をなんとかして討ってほしい」とか「信康と連絡を密にとって、構(かま)えてほしい」というような懇願であればわかる。

それならば「討ち果たしたのちは、徳川の旧領を賜りたく」となるだろう。

それが、徳川だけでなく織田までも名指しながら、「計らう手立てがある」というが、そんな手立てなどあるはずがない。

相手は家康と信長である。いくら戦国時代の女性とはいえ姫である。姫様が書くような文ではない。

第三に、「又わらわ事は、御被官の内にて、さりぬべき人の妻となし給ふべきか、(また私のことは、御家臣のうちで、適当なお方の妻にお世話くださいませ)」と再婚の希望を自ら書き記しているが、冒頭で徳川を他家扱いにしている以上、この誓書をしたためている時点ですでに(松平の)未亡人であると考えて差し支えない。

仮にその「謀事」が功を奏したとして、家康と信長までをも亡き者にできれば、信康が三河守(みかわのかみ)になる可能性が高い。嫡男だからである。実際、起請文に承諾の意として「家康の所領は申に不及(家康の所領は申すに及ばず)」と書いてある。

これは容易に予想できるのに、早々に自らが岡崎を離れる意思表示などするわけがない。

見持が寂しいということであれば、信康の支えとなるため、尾張か三河のどこかの首領か、その縁戚に嫁ぐ方が余程よい。

凋落著しい今川家とはいえ、あの今川義元公の養女であり、井伊の血筋を引く姫である。

松平諸家は、三河一向一揆で家康にほとんど滅ぼされて、各当主は皆、家康が子分に松平姓を勝手に名乗らせて入り込ませてしまったので、もはや別ものであり頼りにならない。

それでも嫁ぎ先は他ですぐに見つかる。

もしくは、せめて武田家本家かその縁戚ならともかく、「大身の侍、小山田兵衛」といういかにも田舎侍の名の家系のわからぬ者のところへなど分不相応もいいところではないか。

つまりこの誓書は、場合によっては信長に見せることを想定して、その信長と武田を巻き込む形にして捏造されたものであり、瀬名姫を「徳川・織田の両将を亡きものにしようと企むとんでもない悪女」に仕立てるためのお粗末な偽書なのだ。

百歩譲って、この誓書を瀬名姫自身が書いたのだとしてもかまわない。

これを書いた何者かは、徳川と松平が別のものであると裏書きしてくれていて、わたし松永としては、実にありがたい偽書なのである。

では誰がこのような偽書を書いたのか。やはり築山に出入りしていた唐人医師・减敬(げんけい)が怪しい。

唐人医師といえば当然、薬の調合もおこなうのだが、当時は薬草を使うだけでなく、たまに丸薬も製造していた。

その原料は人間の遺体である。

調達先のひとつは戦場(いくさば)。協力相手は比丘尼(びくに)。

首級を洗い、遺体の残りを処分する、戦場での遺体処理班である。

そう、家康の祖母、於萬(おまん、もしくは於富)と同じ職だ。

徳川家康と改名する前、いや松平元康の死後、摩り替る前まで、願人坊主(がんじんぼうず)の親方、酒井常光坊(さかいじょうこうぼう)と一緒に世良田元信(せらたもとのぶ)として諸国を諜報活動しつつ練り歩いていたときから、唐人医師団との関係はあったとみるべきである。

また、家康は愛用の薬研と秤を持っていて、年若いころから亡くなる直前まで、生涯にわたり自身で調合した薬しか服用しなかったのは有名な話である。

片や、幼いころから十九歳(一説には二十四歳)まで人質生活であった松平元康に、一体だれが薬の調合方法など教えるというのか。

そのような記録や記述は一切無い。それに生まれた時から将来の殿様である。

この唐人医師・减敬(げんけい)が家康に命じられて、筆跡を似せて書いたに違いないのだ。

それを武田勝頼に届けたのか。いや届けなどしていない。

届けたところで、笑止と言って破られたら終わりである。

勝頼の起請文も瀬名姫の誓書と対の内容で、同時に捏造したとみてよいだろう。

ただし、瀬名姫の再婚候補の名を実名で出してきているので、甲州から何かしらの情報を得ていただろう。

减敬(げんけい)は甲州から来た唐人医師ということになっている。

减敬(げんけい)はこの事件後、まんまと行方をくらませている。

そしてなんと、驚くべきことにこの誓書と起請文がふたつ揃って、築山にあった瀬名姫の文箱(ふみばこ)から見つかったというのだ。

瀬名姫を佐鳴湖の湖畔で殺害した後(そりゃそうだろう、瀬名姫生前にこんなのものがでてきたら武田も巻き込み仕込み人の追求が始まって大騒動になる)、捜索し発見したのは家康家臣、平岩親吉である。

まさに噴飯ものである。

では、なにか。武田勝頼は瀬名姫から送られてきた誓書の返書として書いた起請文を、ご丁寧に届けられた誓書も一緒に入れ直して送り返したというのか。勘弁してほしい。

もしくは控えのために二枚目を用意してあったとでも言うつもりか。

もう一度書く。この誓書と起請文が、築山でふたつ揃って発見されたのは、瀬名姫が殺害された後のことである。

このことは信康自刃の経緯についても重要な意味を持つことになる。後述する。

瀬名姫惨殺の知らせは、近隣諸国にすぐに知れ渡ることとなる。

家康は、瀬名姫を悪女に仕立てるため、あらゆる流言を垂れ流す。

『玉輿記」には「生得悪質嫉妬深き御人也」と書かれ、『柳営婦人伝系』には「無類の悪質嫉妬深き婦人也」と書かれ、『武徳編年集成』では「其心偏僻邪侫(へんぺきじゃもう)にして嫉妬の害多し」と書いている。

酷いものである。

だが、いくら貶めたところで世間の目はごまかせない。

その後、庶民の同情が噂となって拡がり、瀬名姫を斬り殺した野中重政の家系では女人がすべて狂人となった、とされ、本人も逐電し故郷の遠州堀口村に隠棲した。

惨殺の場に立ち会った、石川義房と岡本時仲は癩病(らいびょう)を発し身体が爛れた、と伝わる。

当の家康も、毎夜うなされて等膳(とうぜん;可睡斉=かすいさいの住職で、家康少年時代の恩人、静岡県袋井市)を招聘しお祓いを受けている(可睡斉起立并(ならび)開山中輿之由来略記)。

わたし松永は、いわゆる歴史評論家と称する人たちに、瀬名姫惨殺の理由とされたこの誓書と起請文の詳細な内容まで知っていてほしいとは言わない。が、少なくとも歴史学会では、昭和の中頃に、すでに偽書との判定を下しているにもかかわらず、今でもこれらを持ち出し、瀬名姫を悪女と喧伝する輩がいることに我慢ができない。

それは極めて不勉強であり、あまりに不誠実な態度である。

瀬名姫は、世良田元信(のちの徳川家康)によって、二歳の時に駿府から連れ去られた信康(当時竹千代;重掲[3516]参照)を追って自らの意思で岡崎に来たのだ。

奪還されたのでも、連行されたのでもない。

家康が浜松城に自ら進んで移り住んだ際に帯同しなかったのは、不仲などではなく最初から夫婦ではないからである。

瀬名姫はとしては、信康の傍に居たいので当然岡崎からは動かない。

だが、天正七年(1579)の八月も終わりに差しかかる頃、瀬名姫は、家康に信康のことで話があると誘い出されて佐鳴湖(静岡県浜松市)の湖畔まで連れて来られたのである。

だが着くなり供廻りの野中重政が抜刀するのを見て、「命は惜しくないが、信康のことについて家康とどうしても話がしたいから、そのあと斬られて進ぜよう」と願ったと伝わっている。

だがその願いは聞き入れられず、無残にもその場で侍女ごと斬り殺されたのだ。

瀬名姫の本当の名はわからない。故郷が瀬名村(静岡市瀬名)だから瀬名姫と呼ばれている。

佐鳴湖を背景とした、その気高く美しい瀬名姫の姿が今日に伝わっている。(西来院所蔵)

元康を愛し、三河岡崎の復興を夢見て、ただひたすらに信康の身を案じながら、家康の手にかかり、はかなく散ったのである。

(法名:「西光院殿政岸秀貞大姉」御前谷埋葬時、 三年後に西来院(せいらいいん;静岡県浜松市)に改装され「清池院殿潭月秋天淑室」となる。)

次に信康の身になにが起こったのかを検証し、その冤罪をはらす。

岡崎三郎信康・・天正七年(1579)九月十五日、二俣城(ふたまたじょう)で自刃。

罪状は徳川対する謀反の企てと家臣、使用人に対する暴虐な振る舞い。

だがこれらはすべて捏造でありどれも事実ではない。

信康が切腹を命じられる理由となったのが徳姫の『十二か条の書き立て』である。

この『十二か条の書き立て』は現在では八つしか伝わっていない。

『参河志』では七つ、『三河後風土記』では八つである。

参河志の三つ目が『三河後風土記』では二つに分かれている。

原文は『参河志』から、( )内の口語訳は『史疑・徳川家康事蹟・(村岡素一郎)』(三河後風土記)』からの重引用とする。

<引用開始>

一、築山殿お悪人にて、三郎殿と我身の中様々讒(ざん)し不和になりし玉ふ事。

(築山殿は悪人にて、三郎殿と私との仲をさまざまに悪く云い、仲違いさせようとしていること。)

一、我身女子斗(ばかり)産たる何の用にかせん。大将は男子こそ重宝なれば妾多く置て男子を設け玉へと、築山殿の勧めによりて勝頼が家人日向大和守が女を呼て信康の妾(めかけ)とし甲州へ一味(いちみ)する事。

(私が姫ばかり二人産んだのは、何の用にもたたぬ、大将たる者には男子こそ大事なもの、妾を多く召して男の子を設け給えとて、築山殿のおすすめで武田勝頼の家臣、日向大和守の娘を呼び出し、三郎殿の妾になされたこと。)

一、築山殿甲州の唐人医師?敬(げんけい)と言うものを密夫として剰(あまつさ)へ彼を使として勝頼に一味し、信康を申し勧め甲州方の味方として信長公家康公を亡(ほろぼ)し、信康には父の所領の上に織田家の知行の国を進せ、築山殿をば小山田といふ侍の妻にすべし約束の起請文を書き築山殿へ返事。

(・築山殿は、甲州の唐人医師?敬というものと密会され、あまつさえ、この男を仲介として勝頼に内通し、三郎殿も誘って甲州に味方しようとしていること。)

(・織田、徳川両将をほろぼし、三郎殿には父(家康)の所領のうえに織田所領の国を参らせ、築山殿をば小山田という侍の妻にする、と約束した勝頼の起請文が、築山殿のところに送られてきていること。)

一、三郎殿常々物荒く御座し、我身召使の小侍徒と申す女を我が目の前にて差し殺し其の上にて彼の女の口を引きさき玉ふ事。

(三郎殿は、つねづね、もの荒き所業が多い。私の召使の小侍徒という女を、私の面前で刺し殺し、その上、女の口をひき裂かれたこと。)

一、去る頃三郎殿おどりを好みて見玉ふ時踊り子の装束不宣(しょうぞくよろしからず)又踊り様も悪しくとて其のまま踊り子を弓にて射殺玉ふ事。

(先ごろ、三郎殿は踊りをお好きでご覧になっていたとき、踊り子の衣装がよくない、踊りもへただというので、その踊り子を弓で射殺されたこと。)

一、信康殿鷹野に出玉ふ折ふし道にて出家(しゅっけ)に出合ひたるに、今日殺生のあらざるは法師に逢ひたる故なりとて、彼の法師の首に縄を付け力皮(ちからがわ)とやかに結び付け馬馳せつすり殺し玉ふ事。

(三郎殿が鷹野へお出ましになった折、道で僧侶に出あい、今日、獲物がないのは、この僧侶に逢ったせいだといって、その僧の首に縄をつけ、力革とかいうものに結び付け、馬をはしらせ、その僧侶をひきずり殺したこと。)

一、勝頼が文の中にも一味したるとなし、何ともして勧め味方にすべしとの事に候へば御油断あらば末々は悪敵に与(くみ)し可申候存前申上候。

(勝頼の手紙のなかには、三郎殿がまだ一味になられたわけではないが、何としても進めて味方にしてほしい、とのことなので、御油断なさいますと、末々はおん敵に組するおそれがあろと思い、わざわざ申し上げましたこと。)

<引用終了>

松永知彦です。ここでわたし松永が特に問題にしたいのは三つ目である。

捏造された瀬名姫の誓書と勝頼の起請文の内容がまるで見てきたかのように書かれている。

しかし、だ。

勝頼の起請文の日付が天正六年(1578)十一月十六日であるから、徳姫が『十二か条の書き立て』を父、信長に送ったのは少なくとも天正六年(1578)十二月から天正七年(1579)七月の間のはずである。

酒井忠次と奥平信昌がこの件で信長に呼び出されて行ったのが天正七年(1579)八月一日とされているからである。

ところが、何度も書くがこの誓書と起請文が発見されたのは瀬名姫殺害後の天正七年(1579)八月二十九日以降なのだ。

徳姫はいつどこでどうやってこれを見て、瀬名姫と信康惨殺の理由となった、この『十二か条の書き立て』を書いて信長に送ったというのか。

十二か条のうち十か条まで認めたという酒井と奥平はなぜ肯定できたのか。

信長が本当にこの『十二か条の書き立て』を見て酒井と奥平に詰問したというのなら誓書と起請文より先にこれがあったということになる。

もう無茶苦茶である。

この『十二か条の書き立て』についてさらに検証をすすめる。

この書き立ての全文(といっても四つは欠落である)が確認できる最も古い資料は、『三河後風土記』だけである。

『三河後風土記』の成立は慶長十五年(1610)とされているが、昨今では、正保(しょうほう)年間(1644~1648)の作とも言われており、作者も平岩親吉となってはいるが、実際は不詳である。

後年、さらに徳川におもねる内容となった、『改正三河後風土記』(天保八年(1837)成立)と併せて、あまり良質な資料とは言えないのだ。

特に『改正三河後風土記』は明治四十四年発刊の『体系図中断抄』で「沢田源内が金儲けのために仲間と作成した偽書であり、ゆめゆめ信じるなかれ」と断じられている。

『参河志』は、その前年の天保七年(1836)に渡辺政香(わたなべまさか;江戸時代の国学者)によって編纂されてものだが、『十二か条の書き立て』は『三河後風土記』から引用したに違いない。

他の文献では『松平記(巻六)』には鷹狩りの帰りに僧侶をしばり殺したこと、踊り子を弓で射抜いたこと、徳姫が女子をふたり続けて生んだので不仲であったことが書かれている。

気がひけたからか、この三つのみだ。

『当代記』では、家康の命に背き、織田信長を軽んじ家臣には情けをかけない、とある。

『松平記』は慶安(けいあん)三年(1650)よりも古い写本は未発見だし、『当代記』も寛永(かんえい)年間(1624~1644)の成立とされている。

この二つの文献は年代も近いし、いずれも徳川家康側の資料である。

やはり、どちらも『三河後風土記』を参考文献にしたと思われる。

よって、『十二か条の書き立て』は、その成り立ちや、不自然なほど描写が細かく具体的すぎる記述内容からして、信用できないのであり、わたし松永は、瀬名姫と信康惨殺の事件後、三十年ぐらいの間に、あらたに書き加えられたものと考える。

徳姫が当時書いたものではない。信長は天正十年(1582)六月二日にこの世を去っている。

そもそも信長が、瀬名姫と信康の殺害命令を出したのではない。

信長の死後、家康がその罪を信長に押し付けたのである。

『松平記(巻六)』には「如何様にも存分次第」と信長は返事したと書いてある。

『当代記』にも「左様に父、臣下に被見限ぬる上は、不及是非、家康存分次第」とある。

どちらも「家康の好きにするがよい」との返事と書かれており、信長が信康に、切腹を命じたなどと、どこにも書いていないのだ。

徳川神話の補強材のような、これらの資料でさえこの程度の表現であるということは、この部分は信用してよいのではないだろうか。

さらに、書き立ての七つ目(八つ目)には「勝頼が文の中にも一味したるとなし、(勝頼の手紙のなかには、三郎殿がまだ一味になられたわけではないが)」とある。

信康は謀反に加担していないとしっかり書いてあるではないか。

謀反の事実が自刃の理由のひとつではなかったのか。話のつじつまが全く合わない。

信長は二人を殺せとは断じて言ってない。

信長の返事に従って「存分に」殺害命令を下したのは当の家康本人である。

あまり知られていないが、岡崎三郎信康の三郎とは信長の幼名である。

信康の信は信長の信であろうし、織田信秀の異母弟であり、織田家発展の柱となった織田与二郎信康からとったのかもしれない。

信康がまだ二歳で竹千代と呼ばれていたころ、後の家康となる世良田元信に連れられて、信長の家臣、加藤図書之助(ずしょのすけ)の家にて、弟の加藤隼人佐(はやとのすけ)とその妻の「よめ」が世話をしていた。(重掲[3516]参照)。

信康よりも二歳年下である徳姫(=五徳)が生まれたのもこの頃である。

「五徳(ごとく)」とは鉄瓶などを置く三本足や五本足の台のことである。

信長が娘に五徳と名付けたのは、信忠、信雄(のぶかつ)、と三人で織田家を支えよ、との意味であると『織田家雑録』にある。

しかし、八切止夫氏が主張するように、そこに信孝と信康も加えて五人で力を合わせて織田を支えよ、であったかもしれない。

信康は、天正三年(1575)十七歳の頃、「長篠の戦い」で勇猛果敢に戦い、勝頼をして「徳川は果報者なり。かの小冠者成長せば、かならず天下に旗を立つべし。」と言わしめたという(三河後風土記)。

ただしこれは『三河後風土記』に書かれていることなので、どこまで事実かは不明であるが、その後、家康が駿河に攻め入り各地の小城を次々と攻め落としていく中、小山城攻略の途中、勝頼の反撃を受け、その前月に攻め落とした牧野城への退却時、信康自ら殿(しんがり)をつとめて全軍無事に帰還させ勇名を馳せたという(信長公記)。

これは信用できる。

3.安倍晋三暗殺の秘密(工事中)

事件の経過

1.奈良県立医科大学付属病院の発表(2022年7月8日)