倭健命

橘樹郡を作った倭健命のことを調べて見よう。

倭健命のこと

倭健命の略歴

倭健命は、北海道の宗谷岬から見えるカラフトの北端に近くの大陸あたりを河口とする 黒竜江(アムール川)の南岸あたりに住んでいた鮮卑族の一つである慕容鮮卑の出身だそうです。 慕容(ぼよう)鮮卑は、肌の色が白く、歩揺と言う歩く度にチャラチャラ音がする冠を 好んだと言いますから、トルコやイスエラエルあたりからアジアに来た白人系かも知れません。

騎馬民族である慕容鮮卑は、主に4世紀の始めから100年間くらいの間、 日本(当時は倭国)に渡り、日本を支配した民族だそうです。 その中で、慕容隗(かい)と言う王様が286年あたりに日本(出雲)に上陸し、 当時の日本の王であった神武天皇の王朝を滅亡させたようです。

慕容隗(かい)の正嫡は、慕容皇光(こう)と言う名前であり、垂仁天皇になったそうです。 その子供に慕容儁(しゅん)と言う318年に稲城で生まれた人間がおり、 その人間が我らが倭健命(=景行天皇)のようにです。

記紀によると倭健命は、348年に30歳で死んだことになっていますが、 実際には故郷の遼東半島に戻り、燕王として君臨し、360年に42歳の 厄年で死んだことになっています。

倭健命=慕容儁(しゅん)の母親は、日本人で狭穂姫と言い、弟の狭穂彦が夫である 慕容皇光(こう)を暗殺しようとしたので、弟の狭穂彦の稲城(兵庫県和田山町)に 籠城するハメになり、籠城中に倭健命(慕容儁=誉津別)を産んだようです。 狭穂姫は、夫である慕容皇光(こう)に倭健命を渡した後、稲城で殉死したようです。

慕容氏の故郷である遼東半島あたりは寒いくて橘と言う柑橘類が珍しいそうです。 たびたび遼東半島から日本に遠征した慕容氏は、橘が日本の思い出の品であったようです。 記紀には天日鉾の子孫である但馬守が垂仁天皇に頼まれて橘を探しに行ったと言う 話がありますが、遼東半島に帰った垂仁天皇=慕容皇光(こう)に頼まれたようです。

せっかく、橘を探したのに垂仁天皇は既に死んでいたと言うのが話のオチのようですが、 遼東半島あたりが故郷の慕容氏には、橘と言う柑橘類が珍しく大好きだったのでしょうね。 相鉄線天王町駅の橘樹神社や弟橘媛の名前も橘が大好きだった 倭健命=慕容儁(しゅん)が母親の狭穂姫を偲んだ名前だと思います。

狭穂姫のこと

狭穂姫は、垂仁天皇の皇后

日本書紀によると、垂仁天皇は即位2年2月狭穂姫を皇后にした。 その年10月に久留米市大善寺玉垂宮{師木(城島)の瑞垣宮}を奈良県の纏向の珠城宮へ移したと、記入されている。

即位5年10月、皇后である狭穂姫の兄、狭穂彦が妹の狭穂姫を唆(そそのか)して暗殺未遂の叛乱を起こした。

狭穂姫の垂仁天皇暗殺未遂事件

四年の秋九月。皇后の兄の狭穂彦王(さほびこ)(ともに垂仁天皇のいとこ)が謀反を企て、国を乗っ取ろうとした。

そして皇后に、「おまえは兄と夫とどちらが大切か」と尋ねた。皇后はそれが重要なことだとは思わず、「兄の方が大切です」とすんなり答えた。

すると兄は皇后に、「容姿だけを頼りにしていれば、やがては老いて相手にされなくなる。

最近は美人も多く、天皇との縁組を求める豪族も多い。容姿だけではどうにもならないのだ。しかし、もし私が君主となれば、おまえと二人で、百年でも君臨することができる。

どうだろう。私のために天皇を殺してくれないか」と言って、紐のついた小刀を渡し、「この小刀を衣服の中に隠し、天皇が寝ている時に首を刺して殺せ」と命じた。

皇后はどうしていいかわからなかったが、兄を諫めることもできず、その小刀を衣服に隠した。

五年の冬十月。天皇は久目(くめ)に出かけ、高床式の屋敷に滞在した。この時、天皇は皇后の膝枕で昼寝をしていた。しかし、皇后は兄の命令を実行できなかった。

「兄の謀反のチャンスは今しかないのに」と思うと、涙がこぼれ、それが天皇の顔に落ちた。天皇は驚いて目を覚まし、皇后に、「夢を見た。小さな蛇が私の首にまとわりついた。

また狭穂(さほ)(狭穂彦王の地盤であろう)の方から大雨が降ってきて、顔を濡らした。これはなんの前触れだろうか」と語った。

皇后は隠し切れないことを悟り、ひれ伏して兄の謀反を打ち明けた。そして、「私は兄の意志に逆らうこともできず、また天皇の御恩に背くこともできませんでした。

打ち明ければ兄を亡くし、打ち明けなければ国を傾けます。それからは苦悩の日々でした。今日、天皇が昼寝をしたのを見て、兄のため、とも思いましたが、涙がこぼれてできませんでした。 夢で見たという小さな蛇は、小刀の紐のことでしょう。大雨は私の涙のことでしょう」と申し上げた。

天皇は皇后に、「これはおまえの罪ではない」と語った。

そして近隣の兵士を集め、上毛野君(かみつけののきみ)(関東北部の豪族)の一族の八綱田(やつなだ)に命じて狭穂彦(さほびこ)を討たせた。

すると狭穂彦は軍勢を率いてこれを防ぎ、稲の束を積んで砦を作った。守りは堅く、破ることができなかった。これを稲城(いなき)という。

翌月になっても降伏しなかった。すると、皇后が悲しみ、「私は皇后ですが、兄を失うことに堪えられません。私にも責任があります」と言って、 子の誉津別命(ほむつわけ)を抱いて、兄のいる稲城に入ってしまった。

天皇はさらに軍勢を集め、その砦を囲んだ。そして、すぐに皇后と皇子とを出すようにと伝えたが、出てこなかった。

将軍(いくさのきみ)の八綱田(やつなだ)は火を放って砦を焼いた。それで皇后は皇子を抱いて外に出てきて、 「私が兄の砦に逃げ入ったのは、私と子に免じて兄を許してもらえるかと思ったからです。

でも許されなかったということは、私にも罪があったのでしょう。捕われるよりは自害します。ただ、天皇の御恩は忘れていません。

私がしていたお側のことは、天皇の気に入った人に任せてください。

丹波国(たにはのくに)(京都府北部・中部)には五人の姉妹がいます。みな貞潔な人たちで、丹波道主王(たにはにちぬし)の娘です。

屋敷に迎え入れ、私の代わりとしてください」と申し上げた。

道主王(ちぬしおう)は第9代開花天皇の孫にあたり、彦座王(ひこいますおう)の子である。

あるいは、彦湯産隅王(ひこゆさすみおう)の子ともいう。

天皇はこれを聴き入れた。その時、稲城が燃え崩れて、兵士たちが逃げ出した。狭穂彦と妹はともに稲城の中で死んだ。

天皇は八綱田(やつなた)の功績を称え、倭日向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなだ)(火に立ち向った勇敢な八綱田)と呼んだ。(日本神話の御殿より転写。)


狭穂姫の暗殺未遂事件

弟橘媛のこと

弟橘媛は、

昔々、ヤマトタケル(倭建命/日本武尊)は日本列島を征服するため東上し、相模にやって来ました。彼は房総半島に向かうため走水の海から船を走らせましたが「こんな海チョロイわ~」と言ったために海神の怒りを買い(この逸話は古事記にはない)、海は大荒れに荒れました。

この走水の海の辺り(横須賀市)には今も「走水神社」というヤマトタケルとその妻オトタチバナヒメ(弟橘比売/媛)を奉った神社があるそうで、ここの高台からは房総半島が見えるそうです。ヤマトタケルなら「わざわざ船なんか出さなくても泳いで行けるんじゃね?」ぐらい言ったかもしれませんね…と思ったら!日本書紀では「ジャンプして行けるわ~ワハハ」って言ったらしいな(笑)。そりゃあ怒るよ、「お宅激狭ですね」なんて言われたら海神の沽券に賭けて船沈めるよ。

当時の日本には嵐を鎮める奥の手 IKENIE の習慣がありました。神の怒りを鎮めるために犠牲を捧げる訳ですが、怒った神様は酒やら肉やらを奢った所で鎮まりません。ぶっちゃけ人間じゃないと無理、綺麗なオネーチャンならなお良し。

遠征軍であるヤマトタケルの船に生贄になり得る人物がいるわけが…と思ったらいました、オトタチバナヒメです。古事記によると自ら生贄になって海を鎮めて見せると言ったと言うが、どこまでホントなんだろうな。これからの遠征を考えると戦力を削るわけにはいかないから犠牲にするなら非戦闘員だよねーって所もあったと思うんです。以前に身分が低過ぎる奴を犠牲にしても海神に受け取り拒否されかねないですし。

でも奥さんが空気読んで志願してくれたんですかね、なんとも切ない話だなあ…と思ったら。一説によるとこのオトタチバナヒメ、こんな時のために連れて来た巫女さんであるという説もあるんだそうです。なんでも魏志倭人伝に「日本人は船に乗る時女の子を必ず乗せてるのに手を出さないらしい」という記述があるんだとか。

彼女は海へと身を投げる前に歌を詠んだ。

さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも

(訳) 相模で火攻めにあった時、あなたは私を気遣って声を掛けてくれましたね。

ヤマトタケル一行は走水の海に至るまでに相模の先住民たちの罠に嵌められて危うく野原で焼死しそうになったことがありました。この時野原の草を薙ぎ、火の向きを変えたヤマトタケルの剣こそ、今も三種の神器とされている草薙の剣です。この火攻めにあった相模の地が後に「焼津」と呼ばれるようになったと古事記には書いてあり、だとすれば当時は静岡の一部も相模と呼ばれていたことになります。

オトタチバナヒメの句は私が知る限り現存する最古の辞世の句だと思うのですが、火攻めが駿河国で起きたものだということを知る何者かが歴史の矛盾に気付いたのか何なのか、日本書紀からこの句は削除されてしまいました。

流れに枕す

このオトタチバナヒメの句について、もう少し考えてみましょう。この句は「相模」に付く枕詞「さねさし」から始まっています。地名に付く枕詞は他に「水泳る茨城(みずくぐるうばらき)」「はるひの春日(はるひのかすが)」などがあります。

枕詞は日本独自の文化かと言うと全然そんなことは無くて、私の得意な文化圏で行くと古代ギリシャにもありました。例えばゼウスの妻ヘラには何故その言葉が付けられるのかが今ではわからなくなっていますが「牛の目の」という枕詞を付けることがあります。『イリアス』のかなり冒頭に出てくるから読んでみてね☆

古事記の時代の枕詞は「駄洒落タイプ」と「同義重ねタイプ」の2パターンが存在することがわかっています。「水泳る茨城」は「水泳る鵜」と掛けた駄洒落で、「はるひの春日」は同じ言葉を2度重ねていると思われる。随分しょうも無い成り立ちだとは私も思うんですが、「遊び」特に「言葉遊び」には魔除けの力があるというのも世界共通なんですよ!

例えば『オイディプス王』。主人公はスフィンクスの出す「なぞなぞ」を解いてみせることで魔物スフィンクスを殺すことができました。スフィンクスのなぞなぞの謎については前に哲学的観点から考察を入れたことがあるんですが、スピリチュアルな観点からするとこういう解釈で良いのかなと思います。

人生や季節の節目に魔が潜むという考え方もまた、人類共通のようです。出産や成人になるなどをきっかけに病にかかりやすかったり、季節の節目に災害が起こりやすい傾向があったことから、経験的に節目は危険という考えがあるんでしょう。こうした危険な時期を無事に乗り越えるために世界各地に通過儀礼というものが現存しています。どこだったか忘れたけど、ある歳になるまで生き残る子供が少なかったと言うことから、一定の歳の誕生日会を盛大に行う国があると最近聞いたなあ。日本の七五三も同じような考えなのでしょうね。季節の節目としては冬至の柚子湯なんかがわかりやすいですね。

ではおめでたいことを祝うという側面が強いものも、その起源からすると魔を避けるために呪いをするという側面の方が強かったわけです。

※ 流れ上、片手落ちな説明になってますが、通過儀礼は呪術的な効能の他に社会的な機能も持ち合わせています。つまり、儀式をすることにより集団の中で個がどんな立場(成人かどうか、既婚者かどうか)にあるかを知らしめ、認めてもらうということです。

日本史専門外なのでどこまであってるか分からないですが、日本人にとって和歌というのは呪文なのでしょうね。だからこそオトタチバナヒメは生贄になるため身を清め、死に際する魔を避けるために句を詠んだ。そもそも『古事記』そのものが儀式用の呪文そのものだったのかもしれません。

『旧約聖書』が口伝によって気の遠くなるほど昔のことを正確に(?)伝承することが出来たのは創世記やモーゼ五書が儀式で繰り返し読み上げられた呪文だったからなんだそうですよ。割と最近そのことを知って聖書スゲーと思ってたんですが、日本にも随分面白い聖典があったよなあと思いまして。そういや般若心経もブッダの説教話ですもんね!

…それはいいとして、「さねさし相模」とは一体何だ?

この辺り、まだ諸説並び立っているそうですけど、一番有力な学説と言うのがお馴染みアイヌ語由来説なんですね。アイヌ語で「長い出崎」のことを「タネサシ Tanne Esasi」と言うらしい。つまり…

14063002.png

アイヌ系言語話者の相模先住民によって相模地方は「タネサシ」と呼ばれており、その後征服者が定住した後も2つの地名は併用され、和歌の枕詞に痕跡として残った。有史以前の話なので確定は出来ないですが、とりあえず付けておくのがマナーと教わった枕詞にちゃんとした理由があるって凄いと感動した話だったな~!何よりビックリしたのがかつて私が住んでいた場所にアイヌ語話者が住んでたかもしれないって所ですよ、何かロマンがあるではありませんか。

所で、長い出崎=タネサシ=相模ということは、伊豆半島を持つ駿河もかつてはタネサシと呼ばれていた可能性があるじゃないか。だとするとですよ、オトタチバナヒメが火攻めの場所を相模としたのはそこがタネサシと呼ばれていたからかもしれないですね。さねさしに付く定型文としての「相模」という、枕詞の逆転が起こっていたのかもしれないではありませんか。

…と想像すると個人的には楽しいんですが皆さんどうですか。

事件は房総沖で起こったんじゃない、△△で起こったんだ!?

スッカリここまでで話を落とした気になってたんですが、ここまでが前フリでここからが本題です。まだ話は半分残ってるんだぜ…(笑)!

オトタチバナヒメのおかげで船を進めることが出来たヤマトタケルは千葉県のおそらく富津市辺りに辿り着いたのではないかと思うんですが、彼はそこでコレと言って手柄を上げたとは書かれてないんですね。したことと言えばオトタチバナヒメの墓造り。

7日後に海岸に打ち上げられた彼女の櫛を墓に納めて彼女と同じ名の橘の樹を植えた場所こそ茂原市の橘樹神社(たちばなじんじゃ)だというから…一週間ぐらいオトタチバナヒメ探して海岸ウロウロしてたってことか、ヤマトタケルは…!?(巫女説が真実だとしたら逆に手を付けないらしいがホントなのかが怪しくなってくるなぁ)

ここでやっと橘樹神社のワードが出て参りました。私が勘違いしたのもわかっていただけるでしょ、この名前を冠してたら大抵奉られてるのはオトタチバナヒメなんです、間違っても牛頭天王ではない(ただし牛頭天王はスサノオと同一視されているので古事記の系統を汲んでると言えば汲んでいる)。

また千葉県には袖ヶ浦という場所がありますが、こちらの地名もオトタチバナヒメの着物の袖が流れ着いたのが由来とされています。←ここ伏線だよ☆

ヤマトタケルはこの後福島まで東上した後陸路で神奈川に舞い戻り、足柄の方で白い鹿(これかなり偉い神様だろ…)に八つ当たりして殺すという暴挙に出た後、オトタチバナヒメのことを思い出してわんわん泣くという意味不明なエピソードを残してくれちゃいます。

この時「わが妻よ~ヨヨヨ」と泣き叫んだことからその一帯が「あずま」と呼ばれるようになったということで、二宮町の「吾妻神社」はそれに由来してるんですって!ここに奉られているのも従ってオトタチバナヒメ。不思議なことにこちらの神社にもオトタチバナヒメの櫛が流れ着き奉られたエピソードが残ってるんですね。前にこの話書いた時微妙に古事記と違うこと書いてしまったのはこのためであったか~。

しかし「あずま」語源説としては、京に戻ったヤマトタケルが折に触れ東の方角を見ながら「吾妻よ…」ってメランコリーしてる方が説得力ありますよね。実在するかどうかすら疑わしい人の行動についてあれこれ言うのもどうかなと思いますが。

本筋から外れますが、千葉~足柄のクダリはオトタチバナヒメへの弔いを描いているのかもしれません。

日本に限りませんが、日本には昔から寿命で死ねなかった人間はちゃんと弔わないと邪神になり、災いを呼ぶという考えがありました。だから何かよくないことが起こると「島流しにあったあの人の霊が…」ってなって神社に祭られて学業の神様になっちゃったりするんですね。年に一度お神輿を担いで町を練り歩くお祭りを行う神社は多いですが、あれは道端に落ちてる幽霊を神様が出張成仏させるためのイベントなんだそうですよ。

日本の神々は朝鮮半島からやって来た外国の神様で、古代日本でも泣き女の風習が当たり前にあったことを考えると人目もはばからずメソメソしてるのはそれが儀礼であるからなのではなかろうか、というより当時の人だったら儀礼として泣いてると行間を読めたのではあるまいか。もしかして足柄に着いた辺りで49日とかだったのかな? それともムシャクシャして土地神を殺してしまったから亡き妻の加護を請うたのだろうか。

ここで閑話休題。そんなわけで神奈川県はオトタチバナヒメと縁が深いんですね。神奈川県で橘樹神社と言えば川崎市のヤマトタケル&オトタチバナヒメを奉ったもの。どうやらここにも「オトタチバナヒメの遺品が流れ着き、ここに彼女の墓を作った」という伝承が残っているそうで、どこかの神社から勧請してきたとかじゃないんだな…。聖骸布や仏舎利が世界各地に残っているのと同じように、敢えて突っ込んだらダメなやつでしょうね(笑)。

しかし川崎市の橘樹神社は裏に古墳があり、中に誰が入っていたかは定かではないもののオトタチバナヒメだということを否定する証拠もない、なかなか説得力がある神社です。古墳の中の人がオトタチバナヒメである保証は無いとしてもなかなかのパワースポットですよね~御利益あるんじゃないの?

ところで、ここまでヤマトタケルの東征にカケラも掠っていなかった川崎市が出てくると言うのはなんだか不思議な感じがしませんか? ここに、天王町の橘樹神社がオトタチバナヒメを奉っていない謎の正体が隠されているのではないだろうか。

前回の所で、天王町の橘樹神社の由来が古来の地名「橘樹郡」から来ていると言う所までは確認しました。この地名の由来は勿論オトタチバナヒメ。そして川崎市の橘樹神社もかつては橘樹郡に属していた神社だったわけです。

なるほど、オトタチバナヒメと強く因縁のある土地ながら他の神様を奉ることが出来たのは既に同じ地域にオトタチバナヒメを奉る神社が存在していたからではなかろうか?

結論を先に書いてしまったけれど、だとしても何故天王町に牛頭天王がいらっしゃるのだろうか。橘樹神社は鎌倉幕府時代に牛頭天王の本家、京都の八坂神社より勧請され祇園社と呼ばれ親しまれたのが始まり。牛頭天王は当時疫病除けの神様としてスサノオと混同されていたから、病に苦しんだ天王町民によって請われてやって来たと考えると矛盾が無い(オトタチバナヒメは当時どんな神様だったか知らないですが現在は恋愛成就の神様です)。

そして最大の謎が「橘樹郡」という地名。なぜ天王町がこれほどオトタチバナヒメと深い縁で結ばれているのか、ここが今回のクライマックスです!横浜市の歴史を少しでもご存知なら、相鉄先生の城下町「西区」が江戸時代から現代にかけて徐々に埋め立てられ形成されたことはご存知でしょう。埋め立てられる前、実は天王町は入り江に面していたのです…「袖ヶ浦」という名前の。

そう、そうなんだよ。オトタチバナヒメが人柱となった悲しい物語には、何故か2パターンの結末が「実在」しちゃってるんだよ!すなわち流れ着いたのは神奈川沖だったのか、千葉沖だったのか。神奈川沖浪裏のロケーション争いみたいだなあ。

ところが、オトタチバナヒメの謎は実はこれで終わってませんで、愛知県知多郡にもオトタチバナヒメを奉る入海神社というのがあって、まったく同じ縁起を掲げてるそうなんですよね~。たしかに、知多半島もタネサシ…。タネサシという地名から事件が起こった場所が相模だと長い年月をかけ思い込まれるようになったのだとしたら…!? そもそも相模って神奈川を指す言葉ではなかった可能性すらある?

相模と蜜柑の関係史

さて吾妻と聞いてンン? と思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。実は我らが厚木市温水にもオトタチバナヒメを奉った「吾妻神社」があるんですね~絶対櫛、流れ着かないからな(笑)!しかも林の方には忘れもしない吾妻団地があるではないですか。ここの地名が吾妻町なんですが、おそらく由来はオトタチバナヒメ。いや~我々の日常にヤマトタケルがこんなに影響及ぼしてたとはビックリじゃないか!

>> 吾妻神社(厚木市) - 神奈川県神社庁

 神奈川県が他県に比べても見境なくオトタチバナヒメを奉っているのにはもう一つワケがあると思う。それは、オトタチバナヒメの象徴である橘、すなわち蜜柑がよく育つ温暖な気候であるという所。吾妻神社を持つ二宮は神奈川きっての蜜柑の名産地です。おそらくオトタチバナヒメのエピソードが生まれる前から蜜柑はあったろうし、蜜柑があったからこそヤマトタケルは二宮でオトタチバナヒメを思い出したのかもしれません。

そもそもオトタチバナヒメ=巫女説を支える重要なファクターが橘という名前。日本では古くから柑橘類が神様の果物だとされてきたフシがあり、御神木が柑橘類という神社も少なくない。冬至で柚子湯に入る習慣も身を清めて病魔を除けるという目的から始まったのではないだろうか。

以前に柳田関連の記事で書いたことがあるのですが、清川村宮ヶ瀬(エッ、もしかして沈んだんじゃね? と思って調べたらダム縁に残ってた)に熊野神社という神社があり、そこに奉られている神様は柚子で目を傷付けたため氏子は柚子を育ててはいけないとされていました。これは柳田国男によると柚子が神の作物として聖別されているため、人間たちは触れてはならないというタブーが変化したものなのだとか。

蜜柑が当たり前に育ち(何を隠そうUOMO家は柑橘系の樹が3種類もあるよ)、時には御神木として大切にして来た相模の人々は、自らが信仰する神の由来を問うた時、あの悲劇のヒロインに辿り着いたのではなかろうか? そうか、悲しみに暮れたヤマトタケルが植えた橘の樹ってこの樹だったのか~エウレカーッ!みたいな(笑)。

というわけでオトタチバナヒメのミステリーはここでおしまい。ここから前回飛ばした橘樹神社レポが始まるよ~!勿体ぶった割に普通の神社なんだけどね、お待たせしました…。


弟橘媛姫の袖は神奈川県に流れ着いた可能性が高い



お花畑5